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世の中の約束事(3)

 (1)、(2)で、文字が何故、皆に理解されるのかという点について話し始めました。それは、皆が約束事として記憶しているからです。
 今回は、音声としての言葉について話します。
 
 さて、“鳥”を「とり」と言う必然性はあるでしょうか? 「ちょう」でもいい、なんてヒネクレた事は言わないでくださいよ。必然性は、無いはずです。現に、よその国にいけば、“鳥”の事を「とり」とは似もつかぬ音声で以って表します。
 でも、隣の家に行ったら「とり」と言わなくては通じません。隣町に行ってもそうです。津軽海峡の向こうでも、関門海峡の向こうでも、瀬戸内海の向こうでも、日本から出ない限り“鳥”は「とり」と言わなくては通じません。
 「いや、ウチでは『どる』と言うんだ」と言う人が居ても、そんなのは世間では通用しません。その人の家が特別なのです。また、「ウチでは『とり』と言ったら光るものの事だ」と言う人が居たとしても、やっぱりその人の家が特別なのです。
 
 文字同様、音声としての言葉も、要するに世の中の約束事なのです。約束事だから、破る事もできます。しかし、破れば世間と食い違います。知らなければ、やはり世間と食い違います。
 
続く

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